鎌倉時代と室町時代は、戸籍に類似したものの現存する史料が残っていません。
平安時代初期まで改籍が実施されましたが、律令制の後退と有力貴族による荘園制の成立により、全国単位での戸籍自体の作成が行われなくなりました。
現存する最後の古代籍帳は寛弘元年(1004年)に作成された讃岐国大内郡入野郷の戸籍と言われています。
鎌倉時代、室町時代を通じて、人民・領地の管理、租税の必要性はあったため、何らかの人民管理を行っていたと推測されています。鎌倉時代にできた法律である「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」の規定を読むと、国領や荘園内部で戸籍類似の規定が作られていたことが推察されます。
しかしながら、史料が全く残っていません。
鎌倉時代に「在家帳」が登場しました。これは農民を郷・保単位に記帳するというものです。ただ、これは鎌倉幕府の「地頭制」が前提になっています。
「地頭制」とは、もともと荘園の管理者である荘官の一種であった地頭に鎌倉幕府の創始者である「源 頼朝」が御家人を地頭に任命して1反当たり5升の兵糧米を徴収する権利を与え、荘園の管理、国衙・荘園領家のための年貢の徴収、治安の維持などに当らせるというものです。
荘園を均等に分け、そこに農民を割り振ったものもありました。その一つが池田荘(大和国添上郡二条四里)で、耕作農民名が記載されています。しかしながら、これは「村籍」ともいうべきもので、個々の戸の内容(構成員)を表しているものではないようです
このように、中世(平安時代後期・鎌倉時代・南北朝時代・室町時代・戦国時代)には古代の戸籍・計帳、近世の宗門人別帳のような網羅的な台帳は作られてなかったとされています。
この理由のひとつに、先の平安朝からの「土地課税制度」が引き続き維持され、戸籍などが必要でなかったからであるとも言われています。
さりとて、歴史は動いていました。
戸籍の作成が行われくなった時代は、公家や武士を中心に「名字」も広まっていった時代でもあります。
このような時代背景から、戸籍の歴史と名字の歴史は人民管理の変遷を語る上で、とても密接な関係にあるのだとうかがい知る事が出来ます。
なんとも感慨深い事ですね。
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