9歳で実母を亡くした少女は、母が恋しくてたまらなかったのです。

『こんな宝物が他にありますか。』

今から70数年前。

長崎県、佐世保市。

空襲警報発令のサイレンが鳴れば

防災頭巾を被り、一目散に防空壕に

避難する生活が日常だったころ。

当時9歳の少女はそこにいました。

少女は造船所作業に携わる父と

女学校でお裁縫の先生だった母との

間で幸せな生活を送っていました。

当時を回想すれば、経済状況は

少しだけ豊かだったそうです。

習い事はバレエ。

休日には家族でピクニックに行く生活。

洋服も可愛いワンピースが多く

つぎはぎだらけではなかった。

5番目のきょうだいが生まれてくる事を

家族みんなで楽しみに、穏やかに

暮らしていたそうです。

そんな生活も全て戦争で砕け散り。

妹を出産した10日後に実母は他界。

「今だったら、今の医療だったらきっと

 助かっていたろうけれど、当時は

 病院も薬も十分ではなくて・・・」

残された家族は戦後の混乱の中

父方の郷里へ転居します。

生後直ぐの妹は他界した母の妹宅に

養女となりました。

34歳の母を見送った後に残された

子供達は、当時11歳、9歳、3歳。

戦後の混乱の中、仕事はなく、お金も

乏しかった父子家庭の生活は困窮を

極めたそうです。

「本当はもっと勉強したかったけれど」

中学校を卒業すると紡績工場へ就職。

自分には教えてくれる母もいないし

教養もないからと、がむしゃらに働き

本を多く読み、お茶とお花を学んだそうです。

その後縁あって23歳で結婚。

「結婚して、お母さんと呼べる人が

 出来る事が嬉しくて、嬉しくて。」

9歳で実母をなくした少女は、ずっと

母が恋しくてたまらなかったそうです。

だから、結婚して、義理のお母さんでも

「お母さん」と呼べる人が出来る事が

本当に嬉しくて仕方なかったと。

人生の浮き沈みを経験しても

決して現状から逃げ出さなかったのは。

「母が生きていたら実家に帰ったろうけれど。

 母はいないし。帰れる実家ではないし。」

少女は80歳になろうとしています。

5人の子供たちは巣立ち、孫や曾孫の

近況を楽しみに穏やかに生活しています。

時折、心残りに思うのは、自分のルーツ。

「親から伝え聞いた話だけれど

 定かじゃないし。訊ける人もいないし。」

家系図をお納めしました。

4世代前まで判明しました。

1800年台初頭に生きたご先祖様が判明しました。

曾祖父母様は勿論、高祖父母様までわかりました。

幼心に耳にした、いくつかの苗字が、

地名が、点と点が繋がりました。

『こんな宝物が他にありますか。

 知らない事ばかりで。

何度も何度も見返しています。』

幼くして別れた末の妹様とも

その後、半世紀近く時を経て

再会かなったとの事です。

お納めした家系図を、御きょうだいで

共有され、時に家系図を眺めながら

思い出話をされる楽しみが増えたそうです。

家系図は普段の日常生活には全く

必要ありません。

しかしながら、こんな風にどなたかの

お役に立てる事も多くございます。

だから、全力でお作りしております。

最後までお読みいただき

ありがとうございます。